お知らせ

[2025.9.14] 見失った羊を見つけたので

2025年09月15日

<ルカによる福音書 15:1-7>

1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。

2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。

3 そこで、イエスは次のたとえを話された。

4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。

5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、

6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。

7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」


1. 罪人たちへの神の愛
イエス様は、当時社会から疎外されていた取税人や罪人たちを温かく迎え入れられました。パリサイ人や律法学者たちが不満を抱き、イエス様を非難しましたが、イエス様は彼らと食事を共にし、差別なく対等な人格として接しました。これは、罪人にとっては高められる出来事であり、神であるイエス様にとってはご自身を極めて低くされる出来事でした。このように神がご自身を低くされたのは、ただ愛のためです。まるで母親が子どもと遊ぶために目線を合わせ、父親が鬼ごっこでわざとゆっくり走るように、神様は愛する私たちのためにご自身を低くされました。イエス様が罪人たちを明るい笑顔で迎え入れられたのは、彼らが世間に指さされる存在ではなく、まさしく神の迷える羊だったからです。

2. 迷える羊への神の切なる思い
イエス様は、100匹の羊のうち1匹を失った羊飼いが、99匹を野に残してでも、失った1匹を最後まで探し回るというたとえ話をされました。合理的に考えれば99匹を守るのが正しいでしょう。しかし、羊飼いは非合理的な決断をします。これは金や財産のためではなく、愛のためです。このたとえ話は、魂を捜し求める神様の切なる思いを私たちに示しています。

すべての人間は、本来神の羊でした。しかし、私たちはその本来の居場所を失ってしまった存在です。ドン・キホーテで買った商品を「なくしたもの」とは言わないように、私たちは元々神様のものであったからこそ、神様は私たちを「迷える羊」と呼び、探し求めておられるのです。

3. 神が私たちを見つけられた時の喜び
羊飼いは迷子の羊を見つけると、喜んで肩に担いで帰り、友人と共に喜びを分かち合います。これは、神様が私たち一人を見つけられた時の喜びを意味しています。失くした携帯電話を再び見つけた時、新品を買った時よりも嬉しかったように、神様は私たちをかけがえのない大切な存在として見ておられます。私たちは数多くいる人々の中の一人ではなく、神様にとって必要不可欠な特別な存在です。

結論として、罪人一人が悔い改めるなら、天には大きな喜びがあります。私たちは自ら悔い改め、イエス様を信じたと考えるかもしれませんが、実は神様がまず私たちを探し出し、見つけてくださったからこそ、それが可能だったのです。

皆さん一人ひとりによって、神様は心から喜ばれます。本来の場所である神の子として、イエス様の中で喜びあふれる人生を歩まれることをお祈りします。



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